ローランド・アントニオ・ブラックマン (Rolando Antonio Blackman, 1959年2月26日 - ) は、パナマ出身の元プロバスケットボール選手、指導者。身長198cm、体重86kg。ポジションはシューティングガード。NBAのダラス・マーベリックスで活躍し、オールスターに4度出場した。
経歴
大学時代
ブラックマンはパナマシティで生れ、8歳の時にニューヨーク州ブルックリンに移住した。進学したカンザス州立大学では学校史上3位の通算1,844得点を記録し、カンファレンス年間最優秀選手に選ばれた。4年次にはチームをNCAAトーナメントベスト8に導いている。また、1980年にはモスクワ五輪アメリカ代表に選ばれたが、アメリカのボイコットにより出場できなかった。
ブラックマンは2015年にカレッジバスケットボール殿堂入りを果たし、背番号『25』はカンザス州立大学の永久欠番に指定されている。
プロキャリア
1981年、ブラックマンはNBAドラフト全体9位でダラス・マーベリックスに入団し、パナマ出身者で初のNBA選手となった。2年目から先発に定着し、3年目の1983-84シーズンに自己最高の平均22.4得点を記録した。この年マーベリックスは43勝39敗で球団史上初のプレーオフ進出を果たした。翌1984-85シーズン、ブラックマンは初めてオールスターに選ばれ、この年から3年連続で出場した。1987年のオールスターゲームでは試合をオーバータイムに持ち込むフリースローを決めるなど29得点の大活躍を見せた。
1980年代後半、ブラックマンやマーク・アグワイア、デレック・ハーパーらを擁したマーベリックスはリーグ屈指の強豪に成長し、1987年から2年連続でシーズン50勝を達成した。特に1988年のプレーオフではチーム史上初のカンファレンス決勝を果たし、前年王者のロサンゼルス・レイカーズを第7戦まで追い詰めたが敗退した。この年を境にマーベリックスは低迷期に突入するが、ブラックマンはその後もチームの中心として活躍を続けた。1989-90シーズンには平均19.4得点で自身4度目のオールスターに選ばれた。
1992年、ブラックマンはデビュー以来11年間を過ごしたマーベリックスを去ってニューヨーク・ニックスに移籍した。ニックスでは主にシックスマンとしてプレーした。1993年プレーオフのカンファレンス準決勝第4戦では残り5秒で決勝シュートを沈め、チームのカンファレンス決勝進出に貢献した。翌1993-94シーズンにニックスはファイナルに進出したが、ブラックマンの出場機会はなかった。シーズン終了後、35歳となっていたブラックマンはチームを解雇され、NBAキャリアに幕を下ろした。
NBAでの成績は、980試合の出場で通算17,623得点2,981アシスト(平均18.0得点3.0アシスト)であった。マーベリックスで記録した通算16,643得点はダーク・ノヴィツキーに次ぐ球団史上2位の数字である。その他、出場試合・リバウンド・アシスト・スティール等多くのカテゴリで球団史上トップ10にランクされている。
NBAを離れた後、ブラックマンはヨーロッパに渡り、ギリシャやイタリアのプロリーグでプレーを続けた。1996年にはイタリアのセリエAでリーグ優勝を果たしている。38歳となった1997年に現役を引退した。
2000年、ブラックマンの背番号『22』がマーベリックスの永久欠番に指定された。
引退後
ブラックマンは2000年から2006年まで古巣マーベリックスのアシスタントコーチを務め、テレビ解説者としても活動した。また、2001年にはドイツ代表のアシスタントコーチに就任し、翌2002年のバスケットボール世界選手権で銅メダルを獲得している。
ブラックマンは現在ダラスに居住し、恵まれない子供たちを支援する財団の理事を務めている。
個人成績
レギュラーシーズン
プレーオフ
関連項目
- ダラス・マーベリックスのチーム記録
外部リンク
- Basketball-Reference.com



